第10回 ジャパンカップ 1990年
1990年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはイギリスのベルメッツ。この年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの勝ち馬である。
2番人気はオーストラリアのベタールースンアップ。コックスプレート、マッキノンステークスのG1レース2連勝を含む4連勝の形で来日してきた。G1はこの2つを含む6勝を挙げている実績馬だ。
3番人気はイギリスのカコイーシーズ。この年はアメリカに遠征し、ターフクラシックを勝って、G1初制覇を果たしている。
レースは日本の宝塚記念優勝馬、オサイチジョージがハナに立ってレースを引っ張る形となった。スタイリッシュセンチュリー、プティットイルと外国馬がそのオサイチジョージに続く。1000メートル通過は60秒2。それほど速い流れではない。4コーナーから直線へ。末脚勝負の展開となった。
先に馬群から抜けだしたのは、カコイーシーズだった。このカコイーシーズに外国馬2頭が襲いかかる。ベタールースンアップ、そしてフランスのオード。この3頭が横一線での叩き合いを演じた。この3頭がタイム差なしで並んでゴール。写真判定となった。その結果は1着ベタールースンアップ、、2着オード、3着カコイーシーズの順。1・2着、2・3着の差はいずれもアタマ差だった。
ベタールースンアップはこれでG1レース3連勝を含む5連勝。この活躍が評価されて、1990/1991年のオーストラリアにおける年度代表馬となった。また、オーストラリアの馬がジャパンカップを制したのは、これが初めてのこととなった。日本勢はホワイトストーンの4着が最高。復活が期待された最後方からの競馬を試みたが、オグリキャップは11着と大敗。ファンはまたため息をつく結果となった。
第9回 ジャパンカップ 1989年
1989年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはスーパークリーク。前走で天皇賞(秋)を制している。前年1988年の菊花賞馬でもある。世界を相手に、3つ目のG1タイトルを狙う。
2番人気はオグリキャップ。前走はマイルチャンピオンシップを優勝。連闘でジャパンカップに挑戦してきた。この連闘に、競馬メディア、そしてファンの間で様々な議論が起こった。そのマイルチャンピオンシップで2着に敗れたバンブーメモリーも、このレースに出走してきている。
3番人気はアメリカのホークスター。この時点で、芝2400メートルの世界レコードタイムを持っている馬だった。しかしこのレースで、何とその世界レコードが破られることになる。
レースはイギリスのイブンベイがハナを切る。レース前、先頭に立って逃げると見られていたホークスターはその直後2番手からのレース。快速馬が逃げると見られていたところ、その快速馬のハナをイブンベイが叩いてしまったのだ。1000メートル通過は58秒5。大変なハイペースとなってしまった。
この激しいハナ争いを直後の3番手で見ていたのが、ニュージーランドのホーリックス。イブンベイ、ホークスターが直線で脚色が一杯になったところで代わりに先頭に立って粘り込む。
どの馬がこのホーリックスを捕まえに行くのか?その候補となる馬が外から末脚を伸ばしてきた瞬間、日本のファンは歓声を挙げた。飛んできたのは、オグリキャップだった。オグリキャップがホーリックスとの差を縮める。そして馬体を並べる。しかしクビ差及ばない。優勝はホーリックス。オグリキャップは悔しい2着だった。
レース後、掲示板に驚きの数字が表示される。2分22秒2。世界レコードタイムが更新された瞬間だった。その超高速バトルを制したホーリックスと僅かに及ばず敗れたオグリキャップ。この2頭のハイレベルなバトルは、後々まで語り継がれることになった。
第8回 ジャパンカップ 1988年
1988年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはタマモクロス。前走の天皇賞(秋)で、オグリキャップとの直接対決を制している。天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)とG1レース3連勝中。このジャパンカップも勝って4連勝と行きたいところ。
2番人気はイタリアのトニービン。この1988年の凱旋門賞馬である。後に日本で種牡馬生活を送り、1993年のダービー馬ウイニングチケットを送り出したことでお馴染みのファンも多いかもしれない。
3番人気は前走の天皇賞(秋)でタマモクロスに敗れたオグリキャップ。タマモクロスとの再戦となる、このジャパンカップで逆転を願うファンも多かった。
レースは日本のメジロデュレンとイギリスのシェイディハイツによる先行争いとなる。シェイディハイツの鞍上は日本の柴田政人が務めていた。1000メートル通過は61秒4と緩い流れとなる。一団で4コーナーから直線へ。横一線の叩き合いになる。
馬群の外から、タマモクロスが抜け出しを図る。世界が相手でも、日本のトップホースは負けない。場内から歓声が上がる。しかし、その「世界」は甘くはなかった。タマモクロスの内側から、抜け出してきたのがアメリカのペイザバトラー。2頭の激しい叩き合いとなる。最後はペイザバトラーが1/2馬身先着する形で、先頭でゴール。タマモクロスは悔しい2着となった。
勝ったペイザバトラーはこれがG1初制覇だった。この年6月のボーリンググリーンハンデと9月のマンノウォーステークスで2着。あと一歩のレースはあった。しかし前走のロスマンズ国際ステークスで9着と大敗。このジャパンカップでは単勝9番人気と、評価が低い馬だった。しかし、そんな低評価を覆しての優勝となったのである。ペイザバトラーは翌年1989年のジャパンカップにも出走し、3着。日本の馬場への適性の高さが評価され、引退後は日本で種牡馬生活を送った。産駒に大井競馬でデビューして1996年の大井記念を、後に中央競馬に移籍して1997年の新潟記念、1998年の函館記念を制したパルブライトがいる。
第7回 ジャパンカップ 1987年
1987年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはフランスのトリプティック。前年1986年に続いて、2度目のジャパンカップ参戦となった。11着に敗れた前年と大きな違いがひとつ。この年は前哨戦として、当時オープン特別だった富士ステークスに取相したのである。この富士ステークスで2着以下に5馬身差をつける形で快勝したトリプティックは、単勝オッズ1.8倍と断然の評価を受けることになった。
2番人気はイギリスのムーンマッドネス。この年のフランス・サンクルー大賞を制している。前年1986年には英国セントレジャーでも優勝している。
3番人気はフランスのルグロリュー。来日前はアメリカに遠征し、前走のワシントンDCインターナショナルを制している。
レースはムーンマッドネスと日本のレジェンドテイオーの先行争いで始まった。1000メートル通過は58秒8とやや速い。その流れのまま、4コーナーから直線へ。直線では先行争いを演じた2頭に代わり、ルグロリューが先頭に立って、粘り込みを見せる。注目されたのはトリプティック。しかし、なかなか馬群から抜け出して来ることが出来ない。代わりにアメリカのサウスジェット、日本のダイナアクトレスが伸びてきたが、ルグロリューが振り切って先頭でゴール。アメリカ、日本とG1を連勝した。
ルグロリューは当時3歳馬。牡馬だったが、この日の馬体重は410キロと小柄な馬だった。しかし、母国フランスだけではなく、アメリカ、日本と転戦して結果を残した。小さな体に秘められたパワーは、とても強力なものであったに違いない。一方、早めの来日で万全を期した形だったトリプティックは4着。直線で前が塞がる不利があった。競馬で勝つ、ということの難しさを教えられたレースだった。
第6回 ジャパンカップ 1986年
1986年のジャパンカップで単勝1番人気に支持されたのは、日本のサクラユタカオー。前走の天皇賞(秋)を制して、G1初制覇。その勢いでの連勝に期待したいところである。
2番人気はニュージーランドのアワウェイバリースター。前哨戦として日本のオープン特別、富士ステークスに出走して勝利。日本の馬場への適性をアピールして、ジャパンカップに駒を進めた。
3番人気はフランスのトリプティック。この年の英国チャンピオンSの勝ち馬である。
レースは日本のクシロキングがハナに立つ形でスタート。イギリスのアレミロード、日本のミホシンザンが追走した。1000メートル通過は60秒7。それほど速い流れではない。4コーナーから直線に入ったところで、クシロキングは失速。代わりにアレミロードが先頭に立った。そのアレミロードに襲いかかったのが、同じイギリスのジュピターアイランド。ゴール前はイギリスの2頭による激しい叩き合いとなった。この2頭が並ぶ形でゴール板を通過。レースは写真判定となる。
写真判定の結果は、アタマ差でジュピターアイランドに軍配が上がった。これまで、G2、G3での勝ち星はあったが、G1はこれが初めてのこと。日本で大きな仕事を果たした。ジュピターアイランドはこの時、既に7歳になっていた。3歳でG3戦を勝っているが、その後はなかなか重賞タイトルに恵まれず、6歳になってようやく重賞3勝。そして7歳になって、ようやくG1のタイトルを掴んだのである。晩成型のスターホースだった。ジャパンカップ史上、7歳馬の優勝はこれが初めてのものとなった。勝ちタイムの2分25秒5は、当時のレースレコードである。ジュピターアイランドはこのジャパンカップが引退レースだった。日本で有終の美を飾った形となった。
第5回 ジャパンカップ 1985年
雨の中でのレースとなった1985年のジャパンカップ。単勝1番人気に支持されたのは、日本のシンボリルドルフだった。前年1984年に皐月賞、ダービー、菊花賞の3冠を制し、更に年末の有馬記念も優勝。この1985年も天皇賞(春)を制している。しかし、この秋初戦はギャロップダイナによもやの敗戦を喫していた。その巻き返しを世界を相手に果たしたい。そんなジャパンカップとなった。
雨の中、中団でレースを進めたシンボリルドルフは4コーナーで5番手に取り付き、直線で馬群の外から抜け出しを図る。そして後続に1馬身3/4差をつけて、先頭でゴール板を駆け抜けた。自身6つ目のG1タイトルは、世界を相手にした舞台でのものとなった。ジャパンカップで単勝1番人気馬が優勝したのは、これが初めてのことでもある。
この勝利がシンボリルドルフの海外遠征計画を本格化させるきっかけとなった。次走の有馬記念を制した後、翌1985年にはアメリカへ。結果は残せなかったが、多くのファンに夢を与えるものとなった。引退後に種牡馬としてターフに送り込んだ産駒の1頭、トウカイテイオーも1992年のジャパンカップで優勝。ジャパンカップ史上初の父子制覇を果たしている。
このレース、もうひとつ大きな注目点があった。2着に公営・大井所属のロッキータイガーが入ったのである。1983年の代3回ジャパンカップから設けられていた地方競馬招待枠。その枠で出走した地方所属馬が、初めて2着に入る快挙となった。中央所属馬だけではなく、外国馬とも戦った中での2着確保。この2着は地方競馬の関係者にとって、大きな意味を持つ。そして、多くの地方競馬ファンからも、このジャパンカップは伝説のレースとして、今日も語り継がれている。
第4回 ジャパンカップ 1984年
1984年のジャパンカップを、日本のファンはある特別な想いで注目、あるいは期待としていた。何故なら1983年の皐月賞、ダービー、菊花賞を制した3冠馬ミスターシービーとこの1984年の同じく3冠馬シンボリルドルフの2頭が揃って、日本代表として参戦することになったのである。この2頭の3冠馬の初対決、という点でも注目だったが、まだ日本勢に勝ち星のないジャパンカップにおいて、今年こそ日本馬の優勝か?という意味でも期待を抱かせる顔ぶれでもあった。
レースは西浦勝一騎乗のカツラギエースがハナに立って、引っ張る形に。向正面から3コーナーのあたりでは後続を引き離す大逃げとなった。4コーナーから直線へ。カツラギエースのリードがさすがになくなる。馬群に飲み込まれてしまうのか?後続の馬たちの出番となるのか?
しかし、カツラギエースはなかなか後続に前を譲らない。イギリスのベッドタイムが、そしてシンボリルドルフが懸命に前を追うが、カツラギエースになかなか並びかけることが出来ない。反対に後続を突き放すような形となった。カツラギエースにはまだ余力があった。その余力で後続を振り切り、先頭でゴール板を駆け抜けた。見事な逃げ切り勝ちである。
これが日本馬として初のジャパンカップ優勝となった。世界の競馬に追いつけ、追い越せ、という目標を掲げて創設されたジャパンカップだが、4回目にして日本のホースマン達に希望の光を与える結果となった。もっとも最初に勝つのはミスターシービーかシンボリルドルフが勝つと思っていたファンも多く、伏兵による日本馬初勝利という印象を残したジャパンカップでもあった。単勝払戻金は4060円、この時カツラギエースは10番人気馬に過ぎなかったのである。
第3回 ジャパンカップ 1983年
1983年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはイギリスのハイホークだった。前走のローマ賞でG1初制覇。これがイギリスから初のジャパンカップ招待馬だった。
2番人気はフランスのエスプリデュノール。この年のミラノ大賞を制している。凱旋門賞は4着だった。
3番人気はアイルランドのスタネーラ。前年1982年のジャパンカップにも参戦し、4着に入っている。
レースはハギノカムイオーが1000メートル通過59秒1のハイペースで逃げる形となった。向正面から3コーナーでは大逃げの形になったハギノカムイオーだが、さすがにこのペースではスタミナがなくなってしまう。4コーナーの手前で後続に捕まってしまった。
代わってエスプリデュノールや日本のアンバーシャダイ、オセアニア地区代表のマクギンティらが前を争う形で直線へ。直線の坂の上では今度はこうした馬たちを交わして、スタネーラと日本のキョウエイプロミスが伸びてきた。2頭の叩き合いはアタマ差でスタネーラに軍配が上がった。
勝ったスタネーラはこの1983年、ジョーマクグラスメモリアルステークスでG1初制覇を果たすなど、重賞4勝をマーク。5歳になってようやく本格化を見せた馬だった。この充実ぶりが、ジャパンカップでの勝利につながったのだろう。このジャパンカップ優勝が評価され、この年のアイルランド古馬チャンピオンに輝いている。
2着に入ったキョウエイプロミスは、日本馬として初のジャパンカップ連対を果たした。ジャパンカップが始まった2年前の1981年は、外国勢に全く歯が立たなかった日本馬だったが、3回目にしてようやく馬券圏内に。少しずつ階段を昇るように、日本の競馬はステップアップしていったのである。
第2回 ジャパンカップ 1982年
1982年のジャパンカップで、単勝1番人気に支持されたのはアメリカのジョン・ヘンリー。前年1981年のエクリプス賞年度代表馬である。この年はサンタアニタハンデ、オークツリー招待ハンデのG1レース2勝を挙げている。
単勝2番人気は同じくアメリカのエイプリルラン。ターフクラシックステークス、ワシントンDC国際とG1レースを2連勝して来日。ジャパンカップに駒を進めた。
単勝3番人気はフランスのオールアロング。2走前のヴェルメイユ賞でG1初制覇を果たしている。
レースは日本のカズシゲが逃げる形で進んだ。3コーナーまではマイペースでの逃げとなる。その3コーナーでジョン・ヘンリーが仕掛けて2番手に浮上。流れが急に速くなる。そして4コーナーから直線を迎えた。ロングスパートが影響したのか、ジョン・ヘンリーは坂の手前で失速。代わりにアイルランドのスタネーラ、そしてオールアロングが進出する。更にエイプリルランと同じくアメリカのハーフアイストも迫ってきた。最後はハーフアイスト、オールアロング、エイプリルランが横一線の叩き合いに。結果は1着ハーフアイスト、2着オールアロング、3着エイプリルラン。着差は1・2着、2・3着ともにクビ差だった。
ハーフアイストはこれまでG2勝ちまでしかなかった馬。マンノウォーステークス、ロスマンズ国際ステークスはいずれも4着。日本に来て、大金星を挙げた形となった。日本勢はヒカリデユールの5着が最高。何とか掲示板だけは確保した。逃げたカズシゲは6着だった。前年1981年の第1回同様、外国馬に上位独占を許す形。この年も世界に通用する上で、まだ高い壁があることを、日本のホースマン達が再確認するジャパンカップとなった。
第1回 ジャパンカップ 1981年
日本では初の国際招待競走となった、1981年の第1回ジャパンカップ。単勝1番人気はアメリカのザべりワン。この年の3月にサンタバーバラハンデを制して、初めてのG1タイトルを獲得。前走はターフクラシックステークスで3着に入っていた。
2番人気は日本のモンテプリンス。前年1980年のダービー、菊花賞2着馬である。前走の天皇賞(秋)も2着だった。新しく出来たこのビッグタイトルで、2着続きに終止符を打ちたいところだろう。
3番人気も日本馬だった。前走で天皇賞(秋)を制したホウヨウボーイである。前年1980年の有馬記念優勝馬でもある。
レースは、日本のサクラシンゲキが逃げる形となった。カナダのブライドルパース、同じくカナダのフロストキングが、サクラシンゲキを見る形でレースは進む。4コーナーから直線へ。残り200メートルの付近でフロストキングが先頭に立つ。そのフロストキングに馬場の中央から、アメリカのメアジードーツが襲いかかる。最後はメアジードーツがフロストキングに1馬身先着する形で、先頭でゴール板を駆け抜けた。
メアジードーツは3月のサンタバーバラハンデの2着馬。G2・G3戦までしか勝ち星のない馬が、日本で大金星を挙げる形となった。日本勢はゴールドスペンサーの5着が最高。ホウヨウボーイは6着、モンテプリンスは7着。日本のエース2頭の凡走は世界とのレベル差を痛感せずにはいられない一戦となった。しかし、そもそも日本競馬のレベルアップを目的にスタートしたのがこのジャパンカップ。その第一歩として苦い経験をすることは、当然のことなのかもしれない。日本の馬が馬券の対象となる日の訪れを、関係者も、ファンも、期待しながら競馬場を後にしたに違いない。
